2011年6月29日水曜日

子規と聴剣

日本人なら誰でも知っているというくらい有名な俳人 正岡子規(慶応3年〜明治35年とも面識のあった聴剣。正岡子規も長清会のメンバーであったことから、長清会で出会ったと思われる。松永家の史料の中には書簡などは残ってはいないが、子規の手記に聴剣との関係を示す記録が残されている。

『子規全集』の中に収められている正岡子規が病床で書き記した手記「病牀手記」から一部引用する。


明治三十年



八月九日 曇
午前松永聽劒來ル



九月十六日 雨

松永聽劒來ル午餐ヲ喫ス


十一月九日 晴

聽劒來ル午餐

『子規全集』 p408、p432、p455よりそれぞれ引用


日記ということもあり、詳細なことは書かれていないが、飯を一緒に食べたりしていたということがわかる。そこでどんな会話がされたのか・・・・


この他にも、「湖村日記」(これも子規全集から引用)にも子規と聴剣の記述がある。


九月十五日(金) 本田種竹支那へ行くを送る宴席が羯南宅で開かれ、子規出席。
他に桂湖村、国分青厓、静斎、丁軒が参会。









〜〜〜〜〜

聴剣とは一体何者なのか。無名であり史料も少ないが、地道な資料集めをして整理すればきっとみえてくるものがあると思う。なにか情報があったらよろしくお願いします。

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2011年6月18日土曜日

聴剣と長清会

聴剣という人物を調べていく上で大きなキーワードがある。

「長清会」である。

長清会とは、


雑誌「日本及び日本人」大正12年9月号に寄稿した元新聞日本社員で詩人の寒川鼠骨によれば、長清会は陸羯南が作った囲碁サロンであり、上野寛永寺の子院三十六坊の一つを会場としていた。
三十六坊は江戸時代、大名が幕府に寄進した寺の数々で、戊辰戦争でかなり壊されたもののいくつかが当時も残存していた。会場となった坊は一人の僧侶が守っていたらしいのだが、羯南に貸したまま、嵯峨天龍寺にいってしまったと書かれている。
この会の性格については「単純な清談会(談話サロン)であり直接行動を評定するようなアジトではなかった」としているが「顔ぶれが時の政界にとってかなり物騒な連中だったので、飲んだり論じたり碁を打ったりだけでなく、(天下国家について)憤慨して激論が交わされた。だから娯楽の場というだけでなく同士結束の場になった」と評している。」

陸羯南(くがかつなん)研究 ~司馬遼太郎・青木彰の遺志を継いで~ HPより抜粋
http://katsunan.exblog.jp/6919371/

とあるように、囲碁仲間の会である。

しかしながら、囲碁だけには留まらず、いろいろな議論をしていたようである。
この会のメンバーを見ると、なるほど「(天下国家について)激論」というのももうなずける。

メンバーは、、、

浅井忠、三浦梧楼、陸実、三輪信太郎、磯野徳三郎、平坂?、松永彦右衛門、桂五十郎、池辺吉太郎、三宅雄二郎、国分高胤、犬養毅、山田喜之助、濱村蔵六、平坂恭介、中村不折、釈清潭、稲葉君山、鈴木豹軒」
上記HP参照。

などである。

ちなみに浅井忠は画家。三浦梧楼は元陸軍中将。陸実(羯南)は日本新聞社長。他にも犬養毅など面白い人物達が揃っている。


松永聴剣(彦右衛門)もこの長清会という会に所属し、皆で集っては囲碁に興じていたのであろう。


陸羯南(くがかつなん)研究 会の方々には大変お世話になりました。


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2011年6月17日金曜日

ブログ村に入村しました。

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よろしくお願いします。

松永聴剣という人物

祖父の死後倉庫から古い書簡や写真、軸などが出てきた。

所管類の宛名には「松永彦右衛門」や「松永聴剣」という人物の名前が記されていた。

かなり有名な人物からの手紙も多く、これはなかなかの有名人なのかなと思い、調査を開始することにした。


まず、このエントリーでは松永聴剣という人物の簡単なプロフィール紹介する。






 松永彦右衛門は、本名は久邦、号は聴剣で、慶應3年9月10日但馬国(兵庫県)城崎郡豊岡生まれである。

彦右衛門は通称で代々名乗っており、久邦の父も彦右衛門を名乗っている。


松永家については、記録に「松永家其先弾正久秀公ニ出ヅ」とあり、松永久秀の流れであると書かれているが真偽は不明。

丹後國田邉にて京極氏に仕え、京極氏転封と共に豊岡に移り、その後帰農した。


しかし、家業の醤油醸造で財をなし、藩に軍資を献上することにより苗字帯刀を許され、再び松永を名乗ることとなったようである。

さらに、松永は豊岡特産の柳行李に出資をし、その販路拡大に務めた。

豊岡市史にも出資者の一人として松永彦右衛門の名前がある。

豊岡には鳥居や灯籠を建てるなどしており、地元では裕福な家であったようだ。



維新期には東京(小石川)へ進出し会社の理事に就任するなど活躍するが、最後は借金を抱え没落してしまう。


栄えた時期には、東京帝国大学近く(本郷あたり)でサロンを開くなどし、帝大生などが出入りしていた。聴剣には三人の娘がいたが、当時は美人で知られ「本郷小町」と呼ばれていたとか。。。